2011 01
12
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タイガーマスクに見る、人間の醜悪

カテゴリ:雑談 タグ :

話題で持ちきりですよね。
リスペクト、という形で記事を書かせていただきます。

依然 saereal さんの
ものをあげるということについて(伊達直人騒動に関連して)

大共感大喝采とRTもさせて頂きましたが、ぐうの音も出ないぐらい綺麗な内容でした。
私も何か違和感を常々感じていたのですが、その正体はこれだったのか、と感じましたね。
ただ私、これを見た途端に報道そのものに人間の汚さを見てしまいました。
以下にちょっと纏めてみます。

ちょっと気持ち悪い
ストレートすぎる見出しで申し訳ないですが、どう考えても気持ち悪いです。
mixiでも多くの場所で「やらない善より、やる偽善」と呟かれています。
そしてそれをまるで素晴らしいことかのように取り上げるメディア・マスコ……マスゴミ。
日本という国の行く末が見えなくもない、レベルの低いニュースである事に気付かれた方も多いのではないでしょうか。
少なくとも違和感は必ず感じているはずです。

そもそも「偽善」という言葉の意味をわかった上で使っているんでしょうか?
Wikiでは「善良であることを偽る事」とあります、これ伝わりにくいんで、持論で行きます。
「偽善」とは「人の為だと声高にして行うなんちゃって善意」の事です。

つまり偽善の裏には虚栄心、自尊心、優越感、達成感など様々な自己の感情が溢れています。
saerealさんの記事にもありましたね。結局は自分自身の為である、と。
善意とは本来、自分自身から望んで行う行為であり、そこには「愛」があります。
だからこそ善意は善意として認められ、自分がしたいだけ、なのでそれで相手が喜ぼうが喜ぶまいか関係ないのです。
「愛」なき善意は善意にあらず、と強く言っても問題ないぐらいでしょう。

さて、結果として善行をしているわけですから、他人が喜んでくれるならそれで良いんじゃないのか。
そういう意見も当然出てくるかと思います。私は断じてノーと言います。

偽善は誰得?
今回の報道を少し紐解きます。若干強引ではありますが、大きく脱線はしないでしょう。

まずタイガーマスクこと伊達直人さんが児童施設にランドセルを届けた、と。
そしてそれを素晴らしいと賞賛し、施設側大喜び、メディアも話題が出来てハッピー。
まさかここまで大事になるとは思わず、伊達さんもハッピー。模倣者がばんばん登場。
なるほど、素晴らしい善の連鎖。いえ、負の連鎖でしょうか。

伊達直人さん側に立ちます。
一番最初は「愛」があると感じ取ることは出来ます。ただ「見返り」を求めない姿勢には疑問が残ります。
そこで、報道され模倣者が現れます。報道によって自分に見返りはあったものの、異常な事態です。
「善意」が「偽善」へと変えられます。
自分たちの模倣者は「愛」のない「偽善」を行っているわけですから、実際に行った本人からすれば本意ではありません。
ただ報道の中では素晴らしいことと大絶賛。咎めるわけにもいきません。

模倣者達は自分たちの善行が素晴らしいのだと、テンションアップ。より多くの模倣者が現れます。
この方々は仕事をしていない暇な人か、社会的な立場から外にいる人間だと思います。
いわば寂しさから、誰かに認知してもらいたくて行った。
ただ、自分が寂しがってると思われることを避け、名を伏せ実名報道を避けた。プライドが高く、自己利益最優先の人間の典型です。
ご老人の姿が目撃された、とありましたが可能性が高いのは確かにその辺りでしょう。
現代の社会人、若者、経営者などなどはそこまで暇じゃありませんし、投資するのであれば見返りを求めるはずで、求めない姿勢の無意味さを理解しているからです。

次に施設側です。
貰って嬉しいのは事実でしょう。
新品ですし、必要な物とあれば喜ぶのは当然です。
というか貰って嬉しくないものの方が珍しく、仮に私であっても見知らぬ誰かから私の為に何かを贈ってくれれば喜びます。
ただ、もし私の立場であれば恐怖が生まれます。

上述したように見返りを求めるというのが自然な流れであり、それを求めないという事は偽善か裏があるかのどちらかです。
実際には偽善に裏がある以上、裏しかないというのが事実なのですが。
となると、何があるのか後々の事を考えて疑問から不安、恐怖などが生まれ、嬉しさは霞と消えます。
極端な話「ヤバイ金で買ったものかもしれない」「後々になって何か要求されるのかもしれない」
そういった事が有り得ないとは断言できません。何せ、金額も金額です。ノートやペンならまだしも。

そして一番の問題は、子供の教育に悪いのです。
人から貰った物に何の疑問も抱かず、感謝だけして使うという発想、思考法は後々子供に悪影響を与えます。
その時点で「何故貰ったのか、何故贈ってくれたのか、何を求めているのか」を考える思考法こそを身につけさせるべきで、貰った、はいありがとう、大事に使いましょうではお話になりません。

明確な見返りがあって、理由があるのならば、大事に使う理由も生まれるというものです。
大事に使うためには、何故「大事」なのかを子供には教える必要が有ります。
子供には「前提や状況の説明」が必要で、それをなくせば理解出来ず、あるがままに受け入れます。
その瞬間、考えることを止め、大人や周囲に判断をゆだねるようになります。

そしてマスコミの報道。これが子供の教育に悪影響を与え、波及させます。
この国は何がしたいんだろう、とこの時点でお気づきの方はおられるかと思います。
つまり子供、中学生や高校生ぐらいまでは状況説明や前提が必要なのは変わらず、それを省いて「偽善」を「善」とする報道は大きな悪影響を与えます。
偽善に違和感を感じなくなった子供は当たり前に悪を行います。「正義」の名の下に。

人の為という前提があれば何をしても善行になるのであれば、凶悪犯罪者を殺しても罪にはなりません。
むしろ善行なので、皆が模倣するべきで正義として称えるべきです。
ただこれは極論。

考えることを止めた時点で、人としては死んでいる
偽善だって、良い事なんだから良いじゃないか。
大きな間違いで「良い事」という基準が何処から生まれているかに起因します。

私からすれば、偽善である時点で「良い事」ではありませんし、少なくとも悪影響を与えているのは事実です。
それに対しての責任を伊達直人さんは取れる、と? 一個人でカバーできる範囲をゆうに超えています。
本来であればこれほど話題になるようなものでもないのに、マスコミが騒ぎ立てたおかげで大惨事です。

子供の教育もそうですし、施設側の対応もそう。
そして何より、伊達直人さん自身の「安易な行動」もそう。

考えることを止めて、思いつきで善を行うのは時として「悪」になります。
人は考えることが出来る生き物で、だからこそ賢く、霊長類のトップに立てたわけです。
それを放棄するという事は、犬や猫と変わらず、人間としての生はなくなっています。

今一度、報道を見直してください。
私の偏見や持論もあります。これが正解どころか大きな間違いである可能性があります。
ただ私は私自身の利益の為にこれを書いており、他人がどう思うかは他人に委ねます。
少なくとも「教育の為」「社会の為」という大儀はなく「人の為」というものもございません。

あくまで結果論として、私が私の為に行った行為が人の為になるのなら喜ばしい、それだけです。
「偽善」は人を腐らせる毒です。美味なので注意を。
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コメント
  1. おれはこの行いはいいと思うぞ
    2011年01月12日


    例え人から何を言われ、どういう結果になろうとも

    「自分が正しいと思うことをする」

    べきだと思います。

  2. oiroku
    2011年01月12日


    こんにちは。Yahoo!のリンクをたどってたどり着きました。
    私も今回の件に関しては単純に感動して終わってはいかんだろうと思う者です。

    ただ、一連の行為が、言われるように「偽善」であるならばご説も成り立つかと思いますが、それがそもそも確定的ではないと思います。
    一連の行為の中には文字通り名誉欲や虚栄心でなされたものが数多くあることはまったく否定しません。
    しかし個人でできることは限られています。何か役に立ちたい、と思ったとき、その手段の一例を目にして行うことを必ずしも悪(偽善)だとは思いません。
    偽善と善意の違いは「愛」のあるなしとおっしゃっておられますが、その区分にはあえて語るまでもないほど無理があるかと思います。

    「喜んでるならいいだろう」ということへの反論である「偽善は誰得?」の項は、「子どもの教育に悪い」という理由以外は説得力を感じません。
    前半は、ほぼあなたの推論に過ぎません。
    後半で、「見返りを求めないことに違和感を感じる」とのことですが、では「見返り」とはこの場合なんでしょう?
    匿名でなければよいのでしょうか。
    そもそも寄付行為に対する見返りが虚栄心、自尊心、優越感、達成感を満たすこと以外に存在するでしょうか(税金対策とかありますけど)。

    寄付という行為自体が信用できない、偽善だ、とのお考えかとも推察しますが、それはネット上にあふれる、「やらない善」すら思考しない凡百の暴言と大差ありません。
    「やらない善より、やる偽善」、そもそもこの言い方で言われている「偽善」とは、自称ではなく貼られたレッテルです(実際、偽善はやるべきではない)。
    行為を「偽善」と否定されるのであれば、児童福祉に関心がある者の「善」とはこの場合何であるか、ということに関してはどうお考えでしょうか?

    私が、今回の件を感動しただけで終わってはいけないと思う理由は、最上の「善」を考えなければならないと思うからです。

    長文、乱筆失礼しました。
    もしお暇でしたらお聞かせください。

  3. oiroku
    2011年01月12日


    連投まことに申し訳ありません。
    トラックバックされている、
    依然 saereal 様の文章にある、
    「ものをあげるより、問題と向き合い続けることがどれほど難しいか。」
    という問題意識があなたの文章にないように思われたのでコメントさせていただきました。
    ご不快に思われましたら無視・削除いただいて結構です。

  4. 江並 公史
    2011年01月12日


    コメントありがとうございます。
    ご尤もだと思います。

    私も、例え何と言われようが正しいと思ったなら、それが正義です。善悪は他人や社会が決めるものではなく、自分自身で決めるものだからです。影響は、受けますけど……。

  5. 江並 公史
    2011年01月13日


    >>oiroku様
    こんばんは!
    Yahooのリンク、ですか……ちょっと普段のアクセスから爆発的に増えていて戸惑っているんですがw
    ありがとうございます。

    えぇと、まず何から、という所なんですが一つ一つお答え致します。
    ただ大前提としまして、こちら私の推論と仰って頂いておりますが、むしろそれ以下とお考え下さい。
    私は最上の「善」というものにはあまり興味がなく、あくまで偽善的な行為を肯定する今回の報道を疑問視しており、それがsaerealさんの記事を見て、違和感の正体に気付き、言及というよりも思ったことを書いた、というのが形に近しいです。

    ですので、そもそも根本から破綻している可能性もあり、いくつか記事を見させて頂いた中で「福祉施設の現状」「子供たちへの影響力」「伊達直人さん達の心情」に関しては調べようも理解しようもない、というのが正直なところです。
    裏側を見ずに語っていますので、良くて推論、悪ければ駄文以下の子供の日記です。

    ただまぁ、私なりに思うところがあり記事にさせて頂いたというところです。Viewの数とコメントの数に驚きは隠せませんがw

    まず、私の中で偽善とは何かを定義させて頂いております。
    その上で私の中の善意とは「自己利益を追求した中で生まれた結果によって生まれるもの」だと思っています。
    なので、虚栄心でも自尊心でもいいんです。
    自分が気持ちよくてそれがしたかったのであれば、善意ではありますし、その人にとっての正義です。

    ただ何かの役に立ちたいと思って、その行為に出るのならば、自分の中での目的や着地点は考えるべきで、安易にモノをあげるという短絡的行動から生まれるリスクに目を向けないのは論外です。
    詳細はわかりません。ただ、ランドセルを貰える子と貰えない子の差はどうやって埋めるのでしょう?
    仰るとおり、他は推論でも、子供への悪影響は少なからずあるのでは、とこちらも考えてしまいます。
    まぁ、そこまで考える人のほうが少ないのは当然なので、そこはよしとしても、模倣者の行為を大々的に良いとする報道はやはり疑問です。

    見返りの点に関しては、正しくで、満たされるのならば良いと思っています。
    ただ私は上記の通り、その行為から生まれるほかの点を憂慮した時、安易に行動は出来ません。
    少なくとも相談したり、福祉施設の方と一緒に考えて、自分に出来る事をしようとします。
    ですので、結果の最善を求めるのであれば匿名でもマスク被ってても構いませんが、状況を見極める意味でも相談や検討は必要で、そこに「投資」して結果として「子供たちが喜んだ」ならば納得がいきます。
    ですので、見返りというよりもその行動に対して疑問を感じる、という事でしょうか。

    「子供たちに喜んで欲しい」のに、結果としては真逆の事をしているかもしれない……。
    それって、本当に子供たちのことを考えているのか、疑問です。

    ここまで書けばわかって頂けたかとも思いますが、偽善だからノーであったり、寄付がノー。
    だというような極端な論者にはなりたくありません。
    中途半端かもしれませんが、持論としては「何をしようが人の勝手」であり、そこにとやかく言う筋合いはありませんし、最初に書きましたように本人が気持ちよいならそれで良いのです。

    と、正直長かったので、私自身疑問にお答えできているのか、わかりませんw
    ただ、そこまで恐縮なさらず、思ったことをばしばしとぶつけて頂ければと思います。
    答えられる範囲にはお答え致します。
    勿論脱線したり、論点がずれる事もあるかと思いますが、ここは私の思い付きを語る場でもありますので、そちらはご了承頂ければと思います。

  6. 2011年01月13日


    あなたは、結局ただの傍観者
    「施設の側にたちます」←全然たっていない。
    いったい施設の何を知っているのか?
    私は施設の職員ですが「人から貰った物に何の疑問も抱かず、感謝だけして使うという発想」←こんな発想子供達にはないです。
    誰かが、「施設の子供と職員は↑このような発想です」とあなたに教えたのですか?
    施設の子供には、何故自分がこのような環境にあるのか、世間の人に施を受けるという事はどういう事か?
    という教育を徹底的に行います。
    自分が置かれた境遇を、理解する事なく、これからの人生を乗り越える事はできません。
    ランドセルを普通の子供は親に買ってもらうのに、自分は何故親ではない人から貰えるのか?
    そんな事は、子供達は判っています。
    地獄のような日々を潜り抜けてきた子供もいるのです。
    あなたは、施設の子供も、伊達直人も理解したつもりで、結局理解できずに、周りから見ているだけの傍観者
    傍観者なら見るだけにしてください。
    何もできずに見ることだけしかできない、それでいて、能書きだけは沢山垂れる。
    偽善者以下です。

  7. 江並 公史
    2011年01月13日


    >>okatto様
    こんばんは!コメントありがとうございます。

    えぇ、全く持って仰るとおりで私は施設の事は全く持って存じ上げておりません。子供のこともわかりません。
    ブログタイトルどおり、毒舌でそれが売りなので、何ともいえない気分になるのはわかりますし、仰りたいこともわかります。

    ただ、今回の問題提起は「報道の仕方」にこそ私が違和感を感じ、それをsaerealさんの記事をきっかけに気付き纏めたものです。なので、全部持論で、良く言えば推論、悪く言えば子供の日記のようなものです。
    前提として、置いておくべきでしたね。

    子供たちの境遇や、施設の方々のお気持ちを「理解しろ」というのは残念ながら私には一生かけても不可能です。私はその立場におらず、もし「理解した」というのならばそれこそ大嘘で、どれだけ知識を得ようと、経験しようとわかった気になるのが関の山で、もし理解した人しか語る口を持てないのであれば、施設関係者の内輪ネタで終わってしまいます。
    ですので、ここは傍観者ならではの意見として見て頂きたく願います。
    関係ない、一生理解出来ない者だからこそ見えてくる事もあるでしょう。

    なので、理解したつもりは一切ありませんので、そちらはお間違いなきようお願い致します。

    okattoさんのように施設の職員の方であれば、今回の事に関しての意見は多くお持ちかと思います。ただその中で果たして、子供に境遇や状況を説明したとして、「ランドセルを貰えた子と貰えない子」の境遇の差は、拭い去れない差別になってしまいます。ノートや鉛筆ならまだしも、ランドセルは分けるわけにもいかないでしょうし。

    伊達直人さんの行った行為は偽善ですが、それで満足される方がいて、本人も嬉しいならそれで良い。確かにその通りですが、今回の事には子供や施設の方々も絡んでおり、問題は様々な場所に波及します。それを考慮せずに安易にモノをあげるという行為は危険です。

    私も憶測ですから、実際に子供に悪影響があるかどうかはわかりません。ただ、本当に子供たちの事を思い、子供たちの為になることをしたいのなら、施設関係者に相談はすべきと考えます。

    そして最後に偽善者は偽善者でそれ以上も以下もなく、それが悪いわけでも、良いわけでもありません。偽善がはびこるのが社会ですから、それは許容しなければならない事です。私が気にしているのは「偽善」を「善」に変換しようとする報道のあり方です。

    なので、okattoさんの知っている施設の現状や子供たちの事を是非、私や他の人に教えてあげて下さい。
    私と同じ考えを持っている人は他にもおり、酷い人では「偽善」=「悪」という人もいます。
    私は傍観者でだからこその記事ですが、okattoさんならば別のアプローチもあるかと思います。

    私としての持論はこの記事に集約されますし、意見を変えることはしませんが、傍観者ではない方の意見というのは多くの人の参考になると思いますよ。

  8. 江並 公史
    2011年01月13日


    それともう一つすいません。

    私の境遇や環境、どんな人生を生きてきたのか、という事も貴方には理解出来ません。
    ですので、同じく「安易」に決め付けて語るのなら貴方の仰る言葉は自身にも刺さります。

    子供の教育を考えておられる、施設の職員の方なのであれば「偏見」や「決め付け」の怖さは知っておられるはずです。感情的になられておられたのかもしれませんが、職員の方であればこそ、冷静に相手との「コミュニケーション」をお願い致します。

  9. oiroku
    2011年01月13日


    お返事ありがとうございます。

    この手の問題でポータルから間接的にせよリンクされるのはかなり大変なことだとお察しします。

    おっしゃるように、「事前に寄付したいのだが何がいいか」という相談などが施設にあるとよりよいのだと思います。
    ランドセルというのはあまり必要がない場合もありますし。
    私の近親者に児相の職員がおり、先日その手の電話がかかってきたそうです。
    そもそも施設などは寄付あっての運営という部分があるようですので、施設にお金を送るのが一番よいのでしょう(児相は統括機関なので、施設にあげてくれとお金を送られても結構困ると思います)。常時どこかで受け付けているはずです。

    個人にできることは限られます。本当は行政や大企業でそういうことをしなければならないのでしょうが、できることをすることを、匿名だろうがなんだろうが私は一律に偽善とは思いません。
    そこには(一部を除き)その人なりの真摯な「愛」が存在するのでしょうから。
    そもそも一連の行為が偽善であるという前提が、私にとってはやや受け入れづらい部分なんだと思います。

    ありがとうございました。

  10. 江並 公史
    2011年01月13日


    >>oiroku様
    ありがとうございます。
    いえ、私としてはこのやり取り非常に楽しませていただいております。
    むしろ質問にお答え出来ているのか、心配でしたw

    実際に現場に赴いて、寄付するとするなら相談が一番宜しいでしょうね。
    「何か足りていないものはないですか?」と一声かけたりするのが良いでしょう。

    仰るとおり、お金が一番良いと思いますが自身への見返りを求めている方が多いと思いますので、「モノ」でなければいけないのでしょう。お金には色々感情が入りますし、ややこしいといえばややこしいので、使用用途といいますか、現物であれば用途は限られますので。

    そして悲しいことに、私の中で現状はやはり自尊心を満足させるための模倣者達の共演なので、そう長くは続かないというのと、勢いだけなので、行政ならばともかく企業が参入すると「水を挿すな」と言われるのがオチかと思います。

    良かったのは、少しかもしれませんが児童福祉施設の現状が社会に認知されたことではないでしょうか。
    その点に関しては、素直に喜べる点だと思います。

    こちらこそ、ご丁寧にありがとうございました。

  11. 江並 公史
    2011年01月13日


    あ、偽善に関しては言葉が悪いというのもありますが、私は今でも偽善だと思っています。

    ただ「偽善」=「悪」ではなく、時としてそれが「善」より勝る時がある事も承知しております。ただ出来るのならやはり「偽」はつけない方がよろしいんですけど、社会のシステムとしてそれは受け入れるしかないでしょう。

    oiroku様にはoiroku様なりの正義があるかと思いますので、それを貫き通して頂ければよろしかと存じます。

  12. kota
    2011年07月14日


    “やらない善より、やる偽善”の言葉に対する解釈の違いなんじゃないかなと自分は思います。

    この言葉で意味する“偽善”とは一連の行為そのものに対してというよりも、一部の心ない傍観者の「それは売名行為でしょ、虚栄心からきたものでしょ」と揶揄する態度に対する痛烈な批判を込めたものだろうと解釈しています。 

    寄付も実名で行えば売名行為、匿名で行えば今度は虚栄心だと、どうやっても“偽善”と呼ぶのはその人の自由、でも何のアクションすら興さず、したり顔で人の行為をとやかく批判するだけの態度よりははるかに価値ある行為なのでは? というごく単純な話です、たぶん。

    公益と称してマスコミが普段自ら行ってる行為そのものなので、伊達直人に対して過剰反応気味に称賛したのも、無意識に自らがいたたまれなくなったからではなかったかと思うのです。

    受けた側の役に立たねば、それは“偽善”でしょうか?
    極端な話、溺れている子供を助けようとして、自らも溺れ死んで、子供の命すら救う事もできなかった人の行為は、これは善意ではないでしょうか?

    “ランドセルは分けられないので、差別の元になる”というなら、“じゃ、もう一つランドセルを自分のできる範囲で送ろう”の方がはるかに価値ある行為ではないでしょうか。 ひと1人の力はたかが知れてるのですから。


    そもブログ内で唱えられた持論でいう「善意」の解釈、「自己利益を追求した行為の中で生まれた結果が誰にも喜んでもらえる」というのは、近江商人がいう処の“三方よし”、“商い”として本来当たり前の矜持であって、彼らにとってそれが「善意」であるという解釈すらなかったであろう事を考えると、我々現代人の心がいかに痩せたかを示す好例ではないかと痛感する次第です。

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