2011 03
18
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

私から被災地へ 私から地球へ

カテゴリ:雑談 タグ :

世界中が震撼した今回の東北関東大震災。
実はテレビを見るのだけは極力避けてきました。
「自分」がかき消されてしまうと確信していたからです。


そして昨日、テレビをじっと眺めていました。
帰宅後にニュースを見るのは日課だったのですが、原発関係の話題で気になっていたのでじっくり見てしまいました。
そこまでは良かった。
ただ、画面が切り替わり震災の現地情報が入ってきます。

「まずい」

と思って席を立とうとした瞬間に、息子を探す母親が画面に映ります。
瞬間、動けなくなりました。
そして諦めます。
自分の事がわかるからこそ、足掻くだけ無駄で、一度見てしまった以上そのまま見続けるしかないと判断しました。
いや、ある意味実験的な意味合いもあったかもしれません。


現地の情報が画面に映ります。動画です。
文字情報でもなく、リアルの映像が。
私が苦渋の表情を浮かべていると、父が「俺たちが滅入っても仕方ないだろう」と言って、チャンネルを変えてくれました。
流石に親で、私の事は良くわかるようです。その後はコーヒー飲んでまったりしてましたが。


私がテレビを避けた一番の理由がお分かりになられたでしょうか。
それは

「同情」

です。それは私が自分自身で持つ信念に反することで、決してしてはいけないと誓っています。
が、人は感情の生き物で、目前に広がる悲惨な現状や状況を見て同情するな、も無茶な話です。
自然、食い入るように眺め、映像を記憶しようとします。
そしてそこから湧き上がってくる感傷を抑えることは難しい。


声高に叫び、今その場へ駆けつけられるのなら、駆けつけようという思いが広がります。
あえて、自分に対して苦言を呈します。

「馬鹿野郎」

自らがTwitterやMixiで言っていた「馬鹿な行い」を自ら体言しようとする所に、愚かさを見ます。
私が地元で仕事をするほうが圧倒的に被災者の為になります。
むしろ、その働いた分、向かうのにかかるであろう交通費などの出費を募金した方が確実に良い。


私が赴けば、私の体を使って力仕事や人が必要な仕事は出来るでしょう。
しかしそれに一切の無駄がないと言えるか? プロと同等の動きが出来るのか?
人手が足りない現状に助っ人として赴いても、私が現地で消費する物資に見合った働きは出来るのか。
確実に出来るという言葉は誰も言えないはずです。それは被災者であっても。


しかし金銭や物であれば、それをどう使うかは現地のプロが判断出来ます。
そして私という体が現地に行かない事で無駄を抑えることも出来ます。
非常に効率的で、理に適った動きです。


そう、理に適っている。
ですが前述しました。人は感情の生き物でそれに「納得」するかどうかは個人の判断によります。
つまり絶対的な「正義」ではない。それが私の中で葛藤を生む原因です。


私には私なりの信念があります。
私の行為・行動は全て私の中での「正義」で、常に正当化されます。
それは他人であってもそうで、故に他人の行動を制限する権利は私にありませんし、する気もありません。
極論、私の中で誰かを「殺す」という行為が正しいと思えば、それは私の中で正当化されます。
誰かに戒められるわけでも、国に縛られるわけでもなく、その結果自分が救われなくとも、世界中から忌み嫌われようと、自分の中の「正義」を貫けるのであれば、生涯に後悔はない、という生き方です。


ややこしい話をしましたが単純に言えば、自分の行為・行動に責任を持ち、原因を全て自分に置き換える。
原因自分論を基準に設け、自己責任の名の下に行動を正当化します。
ただしこれは、自己統制が必須で周囲の環境、雰囲気などに流された時点で「正義」とやらは消えうせます。
あくまで自己責任の中でやるのであって、自分が責任を取れない範囲の事象は正当化出来ません。


にも関わらず、私は今回「同情」をしました。
これは自分を中心に考えるものではなく、相手を基準に考えるものです。
時として自己犠牲も存在し、自分で責任を取るという原因自分論からは逸脱し、相反します。


自分で「責任」の取れない行為に傾倒しようとする自分。
相反する行動を何とか正当化しようと必死になる自分。


生まれた結論は

「被災者の為に募金はしない。感傷と感情を抑える自己満足の為に募金をする」
「仮に現地に赴く機会があったとしても、自分の為に行く。知恵を経験を得る為に」

自分の為に、を前提において考えることで整理を付けました。
これを「不謹慎」といいます。
が、その不謹慎さとは私が私なりに出来る範囲での支援方法を考えた上での結論です。
不謹慎に写るのは仕方のない話で、私の「正義」を貫くならば避けては通れない事です。


もっとシンプルでよいのでは?と思う方もいるでしょうし、私もそう思います。
しかしシンプルというのは

・元々シンプルなもの

・難解なものをシンプルに再構築する

という二つがあります。
前者であれば構いませんが、今回は後者です。
多くの要素が絡み合う中で、自分が思ったとおりに動く、シンプルに動くのは危険です。
それは「善意」という名の「悪意」になる可能性もあり、可能性が存在する事が問題です。


巷では、色々な想いや言葉、行動が交錯しています。
映画で見るような雰囲気ではありませんが、広義で見れば

「パニック」

と言っても過言はないでしょう。
その環境下で、平常は存在しえません。
平常がない中での平常とは異質で、ストレスとプレッシャーを伴います。
であれば、自分の中に基準を作り、信念と正義を持って行動することがストレスフリーで良いと感じます。


私はこういった信念を持つが故に

「誰かの為に行動する」

という事は一生をかけても出来ません。それは私自身を否定します。
しかし、それが = 人の為にならない存在、という事ではありません。
私は私なりのやり方で、自分が自分に貢献する過程と結果の中で、人に尽くします。

そして人に尽くしたいのは、単純に私が「やりたい」から。
これも一種の自己満足で、行動に正当性を生み出します。

その正当性を生み出すのも自分自身。
自己完結で自己陶酔。自己を中心におく、至極個人に重きを置いた思想主義です。


良ければ「個人主義」というものを検索して下さい。
私がどういう思想・信条を元に動いているのか少しは理解頂けると思います。
ただ私自身が「個人主義」を表す体現者ではないので、あしからず。

また影響を受けているわけでもなく、私の考え方がただ既にコンテンツとして存在していただけの話です。


最後に。
被災者の安全と お亡くなりになられた方のご冥福をお祈りいたします。
14:47 地震発生から一週間後の今日から 私より。

関連記事

コメントはこちらから




?
© 2024 Peace & Piece. All rights reserved.