2012 | 01 31 |
自らのペルソナを知る事で、初めて自らを知る
ペルソナという言葉、知っていますか。
マーケッターの方や、心理学を専攻されていた方であればよくご存知かもしれませんね。
ペルソナとは仮面という意味で、人間の内面にあるもう一人の自分を指します。
同時に、ペルソナは状況などにより変化し、複数のペルソナを一人の人間が持つとも考えられています。
マーケティングなどで使うペルソナはその人間性を具体化し、ターゲットの行動原理などの想定に用いられます。
自分の中にある、もう一人の自分。
そんな言われ方をすると多重人格者のようですが、全く違います。
多重人格との大きな違いは、自分という存在がもう一人、別に存在している事。
ペルソナは自分という存在の中に、あるものだ、という事。
故にペルソナは自覚的に用いる事が出来ますが、多重人格の場合はその間の記憶がありません。
わかりやすく言えば、猫を被るという表現がそのままペルソナが顕在化しているという表れの一つです。
ペルソナの顕現は無自覚
無意識だと、別人格になっちゃうので、間違えないで下さいね。猫を被る、という表現からも取られるように人間は環境によって性格を多少なりと使い分けます。
そしてその種類は千差万別で、同じ友人同士であったとしても対応が異なるのは当然なわけです。
人間は基本的に相手から良く思われたいという欲求があります。
かつ犠牲的で、献身的。認められたい、褒められたい、感謝されたいという欲求がとても強い。
そんな人間が人前で己の我というものを完全に表現する、というのは本能に逆らう事で、困難です。
人前という時点で、ほぼ確実にペルソナが顕現しているという自覚は持つと良いでしょう。
ペルソナペルソナと言っても、自分は自分
実は対外的な成長というものは、ペルソナの成長という事を指します。コミュニケーション能力全般そうですが、ペルソナの扱いや顕現のさせ具合が上達する事で
コミュニケーションの質を高めているのです。
「この人にはこのペルソナ、あの人にはあのペルソナ」
というのを無自覚に行った結果であって、自分という存在が変化したわけではありません。
人間はある一定の年齢を境に、自己というものが固まり、変化しにくくなります。
一般的には中学卒業ぐらいまで、14,15ぐらいの年齢で固まるとされています。
なのでこれぐらいの年齢の頃の知り合いと今出会ったとしても「変わらないな」と、言われる事が多いと思います。
それは本質的なキャラクターを知られている為です。
いくらペルソナの扱いが上手くなったとしても、自分という存在が変質しているわけではない。
もし自分という存在すらも変換出来るとしたら、それは超一流の詐欺師か別人格、別の人間です。
それを成しえるには、今まで自分が培ってきた財産全てを捨てるという行為に近く、並では不可能です。
少なくとも、己という自覚できる存在を捨てる事になるので、精神的にどこか行っちゃうかもしれませんね。
ペルソナを見ずに知ることで、己を知る
世間一般で言われる、己を知れ、とはペルソナのことではありません。ペルソナは確かに人前で行動する際に現れるもので、自分自身の分身でもあります。
しかし、ペルソナは目的に従って現れている分身である為に、本質的な部分は薄れています。
良くも悪くも、自分を良く見せるモノである為です。
己を知る、という言葉の中には、善悪を超越した己自身に目を向ける事が重要視されます。
自分が持っている本質に、そもそも善悪はありません。
厄介なのは、自分自身に目を向けるその時ですらペルソナを通す為に、善悪の概念を持つことです。
善悪はそもそも人間社会が生み出した概念。
たった一人の自分自身と格闘するときには全く持って不要です。
まずは悪とされる行為すらも正義と考えられるぐらいの器量を持っていた方がいいかもしれません。
簡単に言えば、開き直るって事です。
入り口としてはペルソナを知る事。
薄くなっているとはいえ、行動原理は自分の価値観に基づいたもの。
自分を得る為にはペルソナの行動を第三者的に監視する事が近道です。
例えば服装のチョイス。何故その服装にしたのかをメモする。
音楽プレイヤーに入っている音楽のチョイス。何故その音楽を流したのか。
全ての選択肢から、何故その選択をしたのか、という事実を突き詰めます。
その何故、を追い求める事で自分という人間の本質が垣間見えます。
いくつかそれを続けていく内に、自分はこういう人間だ、という確信が得られます。
確信が得られる理由は簡単で、ペルソナがいつも同じ行動を取る為です。
厳密には同じ行動ではなく、同じ選択をして、何故その選択をしたのかという理由が一緒だからです。
理由が何度も一緒になる、という事はそれ自体が証拠です。
その時の気分ではない、という事になります。
そうやって自らの行動原理を分析していくと、面白いほどに自分という人間が見えてきます。
社会的に見れば、汚く、認めたくない自分が見えてくるわけです。
何故かこういう本質的な部分というものは、とても汚い。不思議です。
人間の本能なのか、それともこれこそが人間という存在そのものの本質なのか。
しかし、いかに本質が汚くとも、その行動までもが汚いとは限りません。
例えば、私という人間はとても自己中心的で自分さえ良ければ良いという人間です。
また安全を最優先に考える為、リスキーな行為は言葉巧みに他人にやらせます。
それでいながら自分が目立てると思えれば、率先して前に立つといういやらしさも持ちます。
さて、私は人間は犠牲的だと述べました。
当然、私も人に褒められるのは大好物で、認められるのなんてのは天にも昇る思いです。
その為、そういった行動は惜しみなくします。上記の範囲内で。
プレゼントをする、という行為。
これはとても自己中心的で安全を最優先しつつも、目立ちたがり屋な人間がする代表的な行動です。
プレゼントをするというのは身銭を切っています。損をするわけです。しかし何故するのか。
それはプレゼントした相手から、自分に対して賛辞の言葉や感謝の言葉が貰えるからです。
そして更に大きな危険を冒す必要性なく、目立つ事が出来ます。
なので私はプレゼントをする、という行動がとても好きです。
それは相手の為を思ってするのではなく、自分の為にしています。
しかし相手から賛辞の言葉、感謝の言葉が貰えなければ意味がない為、プレゼントは真剣に考えます。
結果として、相手からはとても喜ばれます。人道的な行いに見えますね。
ところが本質的にはかなり汚いのです。
しかし、本質が汚くても行動まで汚いわけではない。
人間というのはとても面白い存在なわけです。
物事は捉えよう、という言葉もあるぐらいですからね。
己を知る事で何が出来るのか
具体的に言えば、自分に何が出来るのかがわかってくるようになります。自分の行動原理が見えるという事は、未来の自分の行動も大体予想できます。
決断した先の行動が見える、というわけですから、決断がしやすい為、チャンスを得られます。
チャンスが得られると、自分の望む方向へ未来を持って生きやすいので、生きやすくなります。
しかし、それ以上に私がオススメするとしたら
「人生が楽しくなる」
これに尽きます。
自分の事がわかる、というのは思いのほか楽しいものです。
またペルソナの存在を自覚出来るようになると、ペルソナをコントロールして楽しむことも出来ます。
それに伴った他人の行動の変化なんかも、見ていて面白いものです。
善悪の概念をすっ飛ばして、物事を考える事なんかも出来るようになります。
これもまた面白かったりします。先入観のなくなっていく世界とはとても面白い。
哲学的な理由でも何でもなく。
楽しむというこの一点の為に、己を知る、オススメです。