2011 04
15
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価値観の違いは怖い

カテゴリ:雑談 タグ :

昨日、戦慄しました。
退職の意思を伝える、その前段階の話です。

「無価値である事に意味を見出す」

人がいるとは、私思ってもいませんでした。
無価値であると自覚する謙虚さから、頑張れると言うのです。
正直申しますと理解不能でしたし、その方が頑張ってるところを見たことがないので、信憑性も説得力もありませんでした。
つまりこの言葉は、頭の中から出た台詞で実を持った台詞ではない、自分の言葉ではない、という事ですね。

謙虚さや素直さ、そういった事は確かに大事です。
しかしいつまで経ってもそれでは、人間前に進めませんし、時として謙虚さは害になります。
日本人の美徳とも取れますが、相手に波長を合わせて、相手のご機嫌を伺う。
悪く言えば、相手の言いなりになる、という事です。これはビジネスではありません。
ただの家畜、奴隷です。

それを当然のように仰られる辺り、ビジネスを知らず、奴隷として生きていく道を選んだのだな、と思わずにはいられません。
で、それが悪いとか、そういうわけではなく、私が一番恐怖したのは奴隷制度を当然のように押し通す日本の風土です。
一言で言えば教育。

東北関東大震災の影響で、日本の教育の良さが呟かれています。
より一層確信しました。日本は地震大国で火山の活動も活発です。
ともすれば危機的状況に陥ることが多く、その際に自分勝手な人間がいれば、秩序が崩壊する。
自然発生的に、今の教育が生まれたのではないか、と。

強い、と言われれば強いですが、平常時ではこれ以上ないぐらいに過酷です。
常に連帯感や協調性を必要とする社会では、自分の都合で動けず、休みも取れません。
仕事は自分の人生の半分以上を占めます。その時間を苦しみで過ごそうとする日本人は、それはもう偉大でしょう。
そして

「仕事=しんどい」

という図式があるのも特徴です。おかしな話だと、誰も思わない。
ですが、どう考えてもおかしな話です。
仕事は楽しいものでなくてはなりません。常に辛い、苦しい、それは仕事じゃなくて労道でしょう。

日本人の感覚・感性は何処かずれてる気がします。
それこそが美徳なのかもしれませんが、商売をするに当たっては実に不利。
プライベートにおいては良くても、ビジネスにおいては致命的な欠点がある、これではいかんでしょう。

どちらが良い、悪いを突き詰める気はありませんが、少なくとも私には馴染みません。
それ故に独立という道を踏み出せたのだと思いもします。
日系組織の中で労道する気にはなれませんし、奴隷になる気もありません。
自分の道は自分で。自分のやり方を貫き通してビジネスとする。これが一番です。

ただ価値観の違いは怖い。
商売相手が日本人である以上、どうしてもこの価値観との戦いは続く。憂鬱です。
しかし、自分のやり方を貫き通すのなら、それ相応のモノを持って、相手に接する。
これがビジネスで、そこで初めてWinWinが出来ます。

多分、茨の道でしょうね。私のは。
普通の独立とは何処か違うような気がしています。
道を歩くのではなく、階段を上るのでもなく、穴を掘ってるような。そんな印象です。

でも楽しみです。これから。
色々な人との出会いが、本当の意味で自分の力になっていく、そんな気がしています。
こんな尖った奴ですが、何卒、これからも皆さんよろしくお願い致します。

2011 04
07
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やりたい事を纏めて公開してみた。

カテゴリ:雑談 タグ :

面白ければ、何でも良いと思います!
これやりたいなーって思ってても、中々実現出来ない……。
それの多くの原因って、自分一人でやろうとするからじゃないですかね?

だから、やりたい事があったら話してみる!
公開してみる。協力者を求めちゃってもいいかもしれない!

パクられたら?
いやいや、ここはそもそも論。

「パクられて、誰かに実現させられるようなものは、その程度のもの」

自分にしか出来ない事って大事じゃないかね。
だからパクられて、誰か代わりの人に成し遂げられちゃうなら、それはその程度のもんだし、逆に自分がやったら上手く行かなかった事かもしれない。個人的にはそうだと思っています。経験上。

ノウハウと一緒で、公開して盗まれちゃう程度のものなら、そりゃ自社独自のものではない。つまりノウハウじゃないって事ですよ。
まぁ、一部の業界は除くのかもしれませんがね……。
とりあえず、何個か列挙してみる。
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2011 04
05
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やりたい事には真っ直ぐ

カテゴリ:雑談 タグ :

最近、文章が書けません。
Twitterで呟く程度の文章は書きますが、ブログという現場で伝えるための文章を書こうとすると筆が止まります。
本日はあえて、リハビリを兼ねての執筆です。

稚拙な文章になりましてもご容赦下さい。
可能な限りユーモアと毒に溢れた記事構成とさせて頂きます。
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2011 03
18
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私から被災地へ 私から地球へ

カテゴリ:雑談 タグ :

世界中が震撼した今回の東北関東大震災。
実はテレビを見るのだけは極力避けてきました。
「自分」がかき消されてしまうと確信していたからです。


そして昨日、テレビをじっと眺めていました。
帰宅後にニュースを見るのは日課だったのですが、原発関係の話題で気になっていたのでじっくり見てしまいました。
そこまでは良かった。
ただ、画面が切り替わり震災の現地情報が入ってきます。

「まずい」

と思って席を立とうとした瞬間に、息子を探す母親が画面に映ります。
瞬間、動けなくなりました。
そして諦めます。
自分の事がわかるからこそ、足掻くだけ無駄で、一度見てしまった以上そのまま見続けるしかないと判断しました。
いや、ある意味実験的な意味合いもあったかもしれません。


現地の情報が画面に映ります。動画です。
文字情報でもなく、リアルの映像が。
私が苦渋の表情を浮かべていると、父が「俺たちが滅入っても仕方ないだろう」と言って、チャンネルを変えてくれました。
流石に親で、私の事は良くわかるようです。その後はコーヒー飲んでまったりしてましたが。


私がテレビを避けた一番の理由がお分かりになられたでしょうか。
それは

「同情」

です。それは私が自分自身で持つ信念に反することで、決してしてはいけないと誓っています。
が、人は感情の生き物で、目前に広がる悲惨な現状や状況を見て同情するな、も無茶な話です。
自然、食い入るように眺め、映像を記憶しようとします。
そしてそこから湧き上がってくる感傷を抑えることは難しい。


声高に叫び、今その場へ駆けつけられるのなら、駆けつけようという思いが広がります。
あえて、自分に対して苦言を呈します。

「馬鹿野郎」

自らがTwitterやMixiで言っていた「馬鹿な行い」を自ら体言しようとする所に、愚かさを見ます。
私が地元で仕事をするほうが圧倒的に被災者の為になります。
むしろ、その働いた分、向かうのにかかるであろう交通費などの出費を募金した方が確実に良い。


私が赴けば、私の体を使って力仕事や人が必要な仕事は出来るでしょう。
しかしそれに一切の無駄がないと言えるか? プロと同等の動きが出来るのか?
人手が足りない現状に助っ人として赴いても、私が現地で消費する物資に見合った働きは出来るのか。
確実に出来るという言葉は誰も言えないはずです。それは被災者であっても。


しかし金銭や物であれば、それをどう使うかは現地のプロが判断出来ます。
そして私という体が現地に行かない事で無駄を抑えることも出来ます。
非常に効率的で、理に適った動きです。


そう、理に適っている。
ですが前述しました。人は感情の生き物でそれに「納得」するかどうかは個人の判断によります。
つまり絶対的な「正義」ではない。それが私の中で葛藤を生む原因です。


私には私なりの信念があります。
私の行為・行動は全て私の中での「正義」で、常に正当化されます。
それは他人であってもそうで、故に他人の行動を制限する権利は私にありませんし、する気もありません。
極論、私の中で誰かを「殺す」という行為が正しいと思えば、それは私の中で正当化されます。
誰かに戒められるわけでも、国に縛られるわけでもなく、その結果自分が救われなくとも、世界中から忌み嫌われようと、自分の中の「正義」を貫けるのであれば、生涯に後悔はない、という生き方です。


ややこしい話をしましたが単純に言えば、自分の行為・行動に責任を持ち、原因を全て自分に置き換える。
原因自分論を基準に設け、自己責任の名の下に行動を正当化します。
ただしこれは、自己統制が必須で周囲の環境、雰囲気などに流された時点で「正義」とやらは消えうせます。
あくまで自己責任の中でやるのであって、自分が責任を取れない範囲の事象は正当化出来ません。


にも関わらず、私は今回「同情」をしました。
これは自分を中心に考えるものではなく、相手を基準に考えるものです。
時として自己犠牲も存在し、自分で責任を取るという原因自分論からは逸脱し、相反します。


自分で「責任」の取れない行為に傾倒しようとする自分。
相反する行動を何とか正当化しようと必死になる自分。


生まれた結論は

「被災者の為に募金はしない。感傷と感情を抑える自己満足の為に募金をする」
「仮に現地に赴く機会があったとしても、自分の為に行く。知恵を経験を得る為に」

自分の為に、を前提において考えることで整理を付けました。
これを「不謹慎」といいます。
が、その不謹慎さとは私が私なりに出来る範囲での支援方法を考えた上での結論です。
不謹慎に写るのは仕方のない話で、私の「正義」を貫くならば避けては通れない事です。


もっとシンプルでよいのでは?と思う方もいるでしょうし、私もそう思います。
しかしシンプルというのは

・元々シンプルなもの

・難解なものをシンプルに再構築する

という二つがあります。
前者であれば構いませんが、今回は後者です。
多くの要素が絡み合う中で、自分が思ったとおりに動く、シンプルに動くのは危険です。
それは「善意」という名の「悪意」になる可能性もあり、可能性が存在する事が問題です。


巷では、色々な想いや言葉、行動が交錯しています。
映画で見るような雰囲気ではありませんが、広義で見れば

「パニック」

と言っても過言はないでしょう。
その環境下で、平常は存在しえません。
平常がない中での平常とは異質で、ストレスとプレッシャーを伴います。
であれば、自分の中に基準を作り、信念と正義を持って行動することがストレスフリーで良いと感じます。


私はこういった信念を持つが故に

「誰かの為に行動する」

という事は一生をかけても出来ません。それは私自身を否定します。
しかし、それが = 人の為にならない存在、という事ではありません。
私は私なりのやり方で、自分が自分に貢献する過程と結果の中で、人に尽くします。

そして人に尽くしたいのは、単純に私が「やりたい」から。
これも一種の自己満足で、行動に正当性を生み出します。

その正当性を生み出すのも自分自身。
自己完結で自己陶酔。自己を中心におく、至極個人に重きを置いた思想主義です。


良ければ「個人主義」というものを検索して下さい。
私がどういう思想・信条を元に動いているのか少しは理解頂けると思います。
ただ私自身が「個人主義」を表す体現者ではないので、あしからず。

また影響を受けているわけでもなく、私の考え方がただ既にコンテンツとして存在していただけの話です。


最後に。
被災者の安全と お亡くなりになられた方のご冥福をお祈りいたします。
14:47 地震発生から一週間後の今日から 私より。

2011 03
04
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自分が望む事を追求するというのは、根本的か一時的かで大きく異なる

カテゴリ:雑談 タグ :

teruyastarさんの記事に触発されて書いています。
元記事はこちら。トラックバックは送らせて頂きましたが、ここから先はむしろ自分の意見です。
あくまでteruyastarさんの記事に触発された、少し違う記事になっていますのであしからず。

大きく見れば、願いも欲望も同じです。
どれもかれもが人間としての欲です。綺麗に言ったのが願い、とでも言いましょうか。

その欲求を果たすという行為を正義として認められるかどうか。
社会という組織があり、現代ではシステムとしてそれらが構築されている以上、それに反する行為は罪となります。
人間が人間として決めた罪に。

長くなりますが、夢を追うという事をいつも以上に深く追います。
chat  自分が望む事を追求するというのは、根本的か一時的かで大きく異なる read off

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